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第88話 第十二章:譲る優しさ

Auteur: 峯岸昴
last update Date de publication: 2026-10-28 16:21:06

 私は間髪入れずに言い放った。

「お前だって、本当は分かっているはずだ。かつては冷酷な怪物だった久我総一郎でさえ、お前の描いた絵の優しさに触れて、確かに心を変えたじゃないか。お前の優しさは、権力の深い闇にすら届く力を持っていたんだ!」

 ユウは息を呑み、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。

「俺が日下部を、自分の命を懸けて助けようと思ったのには、理由があるんだ」

「え……?」

「あの嵐の夜、お前はスズメの『ちーこ』を助けるために外へ飛び出した。俺が怒った時、お前は泣きながら言ったよな。『助けられるのに、助けないのはおかしいよ!』って」

 ユウの顔が、くしゃりと歪んだ。

「俺が泥水の中で、自分の命を懸けてでも人を救おうと思えたのは……親父の言葉だけじゃない」

 私は堪えきれず、声を強くした。

「あの日のお前の、その純粋な優しさがあったからなんだよ! お前の優しさは、久我総一郎を変え、俺を変え、俺の中でずっと生きているんだ!」

 私の叫びが、冷たいコンクリートの部屋に響き渡った。

 ユウは、目に見えない刃で胸の奥を深く抉られたように顔を歪め、自分の胸元を強く握り締めた。

 その瞳の奥で
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  • 椅子に座りますか   あとがき

    あとがき最後まで『椅子に座りますか』を読んでくださり、本当にありがとうございました。 この物語を書き終えた今、改めて見返すと、『椅子に座りますか』という言葉は、私が最初に考えていた以上に、たくさんの意味を持つ言葉になったように思います。物語の始まりにあったのは、満員電車の中にある、たった一つの優先席でした。 「疲れている」「座りたい」という誰にでもある感情のすぐ隣に、「それでも、この席をもっと必要としている人がいるかもしれない」という、ほんの少しの想像力を持てるか。 自分が少しだけ損をして、誰かに席を譲る。その小さな行為の中に、人間の優しさの原点があるのではないか。そんな思いから、この物語は始まりました。そして物語が進むにつれ、「椅子」は少しずつ姿を変えていきます。 誰かより上に立つための椅子。権力者だけが座ることのできる特等席。 そして、匿名という壁に守られ、安全な場所から他人の人生へ石を投げる「観客席」という名の椅子。問題なのは、椅子に座ることそのものではありません。 一度手に入れたその「心地よい席」を、必要な時に手放せるのか。そこから立ち上がれるのか。誰かへ譲ることができるのか。 それを根底に置きながら、私はこの物語を紡いできました。そして本作を通して、サスペンスの奥でもう一つ描きたかったテーマがあります。 それは、「人は、誰かのために変わることができるのか」ということです。物語の終盤、ジョウの義父である真下修造が遺した手紙に、その答えがあります。 修造は、最初から強い人間でも、立派なヒーローでもありませんでした。かつての彼は、組織の事なかれ主義という泥沼の中で、自分が正しいと思うことよりも、立場や命令を優先してしまう弱さを抱えた警察官でした。そんな修造を、命を懸けて市民を救う「本物の刑事」へと変えたのは、一人の少年の存在でした。 理不尽な現実へ放り出されたジョウが、いつか憎しみに呑まれ、悪へ染まってしまうのではないか。そう危惧した修造は、言葉で「正しく生きろ」と説教するのではなく、自分自身の生き方を変える道を選びました。役職が上か下か、相手が権力者か否か、自分が損をするか。 そんなことは関係ない。目の前に助けを求める命があるなら、泥水をすすってでも守り抜く。 修造が変わったのは自分のためではありません。ジョウという一人の少年を、暗闇から守る

  • 椅子に座りますか   第91話 最終章 椅子に座りますか

     * * * 密室の電子ロックが解除されたのは、あの日から二日後だった。「……ユウ! いるか、ユウ!」  パスワードのタイマーが切れ、開錠音が響いた直後。私は重い鉄扉を押し開け、アジトの中へ飛び出した。  しかし、弟も、カラスたちもいない。  乱雑に散らかった機材と、死んだような静寂だけが残されていた。  息を切らしながら部屋を見回したその時、部屋の奥でつけっぱなしになっていたテレビへ目が止まった。 画面には、国会議事堂前に集まった大量の報道陣と、ブルーシートに覆われたおぞましい血だまりの映像が映し出されていた。それは真昼の惨劇を報じる、繰り返しのニュース映像だった。『――国会議事堂前のテロ主犯死亡事件から、今日で二日が経過しました。死亡した主犯の男は、なんと久我幹事長の息子である久我晃生氏であると見られており、政界には激震が走っています』  アナウンサーの沈痛な声と共に、別の映像へ切り替わる。 『また、起爆を試みるテロリストに単身飛びかかり、身を挺して惨劇を阻止しようとした結果、やむを得ない制圧射撃に巻き込まれて殉職した日下部巡査の遺体は、本日無言の帰宅を果たし――』「……は?」  私はテレビへ釘付けになったまま、全身から一気に血の気が引いていくのを感じた。 心臓が鷲掴みにされたように痛む。 死んだ? ユウが? 日下部が、殉職? 馬鹿な。そんなはずはない。「なんでだ……どういうことだよッ!!」  私はモニターへすがりつき、叫んだ。画面を両手で叩き、信じられない現実を否定しようと声を振り絞った。 「お前たち、議事堂を爆破するって言ってたじゃないか!! なんでユウが議事堂の前に立ってるんだよ!! なんで日下部が、一緒に死んでるんだよ!!」 混乱する頭で、ニュースが伝える断片的な情報と、現場の映像を必死に繋ぎ合わせた。  ユウはあの残酷な国会議事堂爆破計画を中止した。  奴隷たちを解放し、代わりにたった一人で白日の下、マスコミの前へ現れ、久我家の闇を告発した。  そして現場に駆けつけた日下部の目前で、隠していた起爆装置を操作しようとしたため、警察の指示により射殺されたという。「……違う」   私は震える両手で頭を抱え込んだ。  あいつが、ユウが、日下部の前でそんなことをするはずがない。 ユウが日下部を傷つけるはずがない

  • 椅子に座りますか   第90話

     画面を覗き込んだ久我晃一郎の目が、限界まで見開かれた。  そこには、無数のマスコミのカメラに囲まれ、拡声器を構える『死んだはずの息子』の姿が生中継で映し出されていた。 「……馬鹿なッ!」  久我は椅子を蹴り倒すようにして立ち上がった。 顔面は怒りと焦燥で土気色に染まっている。彼は周囲のどよめきを完全に無視し、議場を飛び出してエントランスへと向かって猛然と歩き出した。 「久我幹事長! いかがなされましたか!」 議場の隅で警備に当たっていた郷田管理官が異変を察知し、完全武装したSPたちを引き連れて慌ててその後を追う。 分厚いガラス張りのエントランスに辿り着き、外の広場を見下ろした彼らの耳に、絶望的な声が飛び込んできた。 「俺は久我晃生。一連のテロ事件のすべてを、俺一人でやった!」 ユウの声が白日の下へ響き渡った瞬間、包囲していた報道陣から割れんばかりの絶叫が上がった。  死んだはずの次期総理候補のご子息がテロの主犯であったという、国家の根底を覆す異常事態。全国のテレビ画面にその顔がハッキリと映し出される中、ユウは持っていた鞄を高々と掲げた。「そして、これが久我家が今まで裏で手を染めてきた、すべての汚職、脅迫、そして殺人の証拠だ!!」  ユウが鞄を逆さに振ると、大量の書類とUSBメモリが空へ向かって放り出された。 白い紙片が、まるで真昼に降る雪のように、国会議事堂前の青空を美しく、そして残酷に舞っていく。「証拠書類だ! 一枚でも多く回収しろ!!」 「カメラ、あの書類の束をズームしろ!!」  群がってきた記者たちが、我先にと地面に散らばった紙の束を拾い集め始めた。 それは、特等席に座り続けてきた権力者たちを社会的に引きずり下ろすために、ユウの最初で最後の告発だった。「ふざけるなッ! 貴様、何をしている!!」  ガラス越しにその光景を見た久我幹事長は、エントランスの扉を押し開けて外へ転がり出るように飛び出した。  自分たちの隠蔽してきた最大の汚点が公衆の面前に晒され、あろうことか報道陣がその証拠を全国中継のカメラの前で拾い集めている。 すべてが手遅れになりかけていると悟った久我は、蒼白な顔で背後に続く郷田管理官を振り返った。  その狂気と焦燥に満ちた目配せで、何かを伝えた。 郷田は忌々しそうに舌打ちし、凄まじい殺気を放ちながら完

  • 椅子に座りますか   第89話 

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     私は間髪入れずに言い放った。「お前だって、本当は分かっているはずだ。かつては冷酷な怪物だった久我総一郎でさえ、お前の描いた絵の優しさに触れて、確かに心を変えたじゃないか。お前の優しさは、権力の深い闇にすら届く力を持っていたんだ!」 ユウは息を呑み、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。「俺が日下部を、自分の命を懸けて助けようと思ったのには、理由があるんだ」「え……?」「あの嵐の夜、お前はスズメの『ちーこ』を助けるために外へ飛び出した。俺が怒った時、お前は泣きながら言ったよな。『助けられるのに、助けないのはおかしいよ!』って」 ユウの顔が、くしゃりと歪んだ。「俺が泥水の中で、自分の命を懸けてでも人を救おうと思えたのは……親父の言葉だけじゃない」 私は堪えきれず、声を強くした。「あの日のお前の、その純粋な優しさがあったからなんだよ! お前の優しさは、久我総一郎を変え、俺を変え、俺の中でずっと生きているんだ!」  私の叫びが、冷たいコンクリートの部屋に響き渡った。 ユウは、目に見えない刃で胸の奥を深く抉られたように顔を歪め、自分の胸元を強く握り締めた。 その瞳の奥で、テロリストとして積み上げてきた冷酷な決意と、かつての純粋な弟としての感情が、激しくせめぎ合っているのが痛いほど分かった。 だが、ユウは何も答えなかった。 限界まで張り詰めた沈黙が続いたあと、ユウはゆっくりと私へ背を向け、重い鉄扉の取っ手へ手を掛けた。「ユウッ!」 たまらず、その背中へ向かって叫んだ。 扉に手を掛けたまま、ユウは動きを止めた。 それでも、私の方を振り返ることはなかった。 しばらくして、押し殺したような声だけが聞こえてきた。「……数日後に、このドアのロックは自動的に解けるようになっている。だから、それまでここで待っていてくれ」 次の瞬間、重い鉄扉が閉まり、冷たい金属同士が噛み合う鈍い音が、コンクリートの部屋へ響いた。「待て、ユウ! 話はまだあるんだ!」 私は分厚い鉄扉へ駆け寄り、両拳を叩きつけながら喉が裂けるほど叫んだ。「ユウ! 開けろ! まだ終わってないだろ!!」 しかし、返ってくるのは電子ロックの赤いランプだけだった。 扉の向こうから、足音さえ聞こえない。 やがて私は、力を失うようにその場へ膝をついた。 親父の教えも、私の言葉も、ユウに

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